2008年7月 4日 (金)

コナン・ドイル卿? (2)

 1902年1月9日、ドイルはパンフレットを書き始め、毎日16時間書いて、17日には
The War in South Africa: Its Cause and Conduct
南アフリカの戦争――その原因と経過
 という6万語のパンフレットを仕上げた。
「私の個人的見解はできるだけ表へ出さず、目撃者の言を、農家の炎上とか暴行とか集中キャンプとかその他の論争問題について、その多くはボーア人であるが、書き記した。説明はなるだけ簡単に短くしたが、事実の正確さについてはどこまでも一貫し、焼けた農家の実数についてだけは自身がないけれど、といっても重大な質問を受けたことは一度もない。私の記述が充実しており効果的であるのを重いながらペンをおいたときは、うれしくてたまらなかった」(『わが思い出と冒険』p.231)

ドイルはこのパンフレットの刊行のために寄付を募った。パンフレットを書き終えるころには1000ポンドほどが集まった。
「多くはあまり余裕もない中から無理をして送ってよこした少額の金であった。中でもきわだった特徴は、毎日のように目の前で行われる中傷に答えることができないのでみじめにされている外国在住の女教師(家庭教師)からの寄付の多いことだった。」(p.232)
  2ヶ月ほどで英語版は30万部ほどを売り上げた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ハンガリー語、ロシア語など20カ国語の訳本が出版された。これによって
「大陸の諸新聞の論調に急速な著しい変化が現れた。」(p.238)
 少なくとも「英軍の残虐行為」という悪評はドイルの努力によって払拭された。
「ここまできて私の胸底に深く印象の残っていることは、政府が自分のことなのに十分の説明と防衛策に出なかったことである。一個人が三千ポンドを費やして、一ヶ月という短い期間に世界中の世論に著しい感銘を与え得たのだから、真に資力も知能もある組織ならば、どんなことができるであろう?」(p.240)

Boers

 ボーア人の部隊。
 ボーア人はゲリラ戦を挑んだ。英軍は苦戦を強いられ、ゲリラへの補給を絶つために女子供を含む12万人をconcentration camp強制収容所に収容し、農地や農場を焼き払った。収容所では2万人が死亡した。
 しかし、大陸の新聞で伝えられたような「残虐行為」は、白人であるボーア人に対しては行われなかった。

 1906年、南アフリカは英国領となっていたが、ズールー族の酋長が徴税官を投槍で殺し、これをきっかけにズールー族の反乱がはじまった。
 当時南アフリカにいた37歳のガンジーは、大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、在住インド人による篤志救急隊を組織した
 ガンジーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンジーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。
(『ガンディーと使徒たち』より)

 この残虐行為はさすがに悪評を呼んだ。しかし、今回は英国の国際的な評価が問題になるような事態にはならなかった。相手は黒人なのだもの。

 ともかく、1902年のドイルは「南アフリカ大虐殺」の冤罪を独力で晴らしたのである。ナイトの位はこの功績に対して与えられた。
 しかし、まだ本題に入っていない。

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2008年7月 1日 (火)

非暴力直接行動(8)

 第二次大戦後の植民地の独立はどのようにもたらされたか?
 ベトナム。フランスとしては、戦後にベトナムを独立させるつもりは毛頭なかった。1945年9月、ホー・チ・ミンたちはハノイでベトナム民主共和国の成立を宣言したが、フランスは軍隊を送った。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍がベトミン軍に降伏しジュネーブ協定によって撤退するまで第一次インドシナ戦争が続いた。
 インドネシア。日本の敗戦後、オランダは独立を認めず軍隊を送った。1949年まで続いた独立戦争には、残留日本兵2000名も参加した。
 マレーシアとシンガポール。マレー半島は戦略的に重要な領土なので英国は簡単に手放そうとはしなかった。マレー系と中国系の対立もあり、マラヤ連邦として完全に独立したのは1957年である。(シンガポールは1965年に分離独立)
 ビルマ。1942年、アウンサン(アウンサンスーチー女史の父親)らが日本軍の後押しで英軍を駆逐、翌年ビルマ国建国。1945年3月、アウンサンは英国側に寝返ったが、戦後英国は独立を許さず、再び英領となった。1948年、ビルマ連邦として独立。
 住民が非暴力の抵抗運動を行い、支配者が植民地主義の悪を反省して立ち去る――というシナリオが実現していたらどんなに素晴らしいことか。しかし…

 アジア諸国の独立については
・インドとパキスタンを除き、日本軍が支配者を駆逐した。
・日本の敗戦後、現地人が独立戦争を戦った。
・フランスやオランダは負けて追い出された。イギリスは必ずしもそうではない。植民地保有のコストが割に合わなくなってきたのだろう。「インドはもう十分元を取ったし、ビルマのようなつまらない所を持ち続けても。しかし、マレー半島はまだ手放せないぞ」
・インドでガンジーの非暴力主義が独立を「四半世紀以上遅らせた」かどうか。しかし仮にガンジーの指導が貫徹していたらどうか。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)の路線がなかったとしたらどうか?

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 1943年11月の大東亜会議出席者。左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、王兆銘(中国)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)。

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2008年6月30日 (月)

非暴力直接行動(7)

 ガンジーは1948年1月30日に暗殺された。
 インドが独立したのは前年の1947年8月15日であった。パキスタンとの分離独立であったため、ガンジーは独立式典にも参加しなかった。初代首相は国民会議派におけるガンジーの盟友ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)であった。

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 インドが独立を勝ち取ることができたのは、ガンジーの非暴力直接行動が功を奏したからだろうか?
 英国の政治学者バーナード・グリッグは、「ガンジーの非暴力主義がインドの政治的解放を四半世紀以上遅らせたことはほとんど確実であろう」という。(ガンディーと使徒たちの書評
 別宮暖朗氏の『軍事学入門』

 日本の敗戦から2年後、イギリスはインドの独立を承認しました。この独立も、イギリスが財政上つりあわないと判断したことが大きかったと思われます。イギリスは1931年に成立した労働党のマクドナルド挙国一致内閣のころから、インドをカナダ、アイルランド、オーストラリアなどと同様の地位の自治領として独立させることを考えていました。
 その理由は、1919年に起きたアムリツァールの暴動などにより治安維持コストが予測不可能になったことだと思われます。……
 ……植民地の独立とは……恒常的ハラスメント(宗主国から派遣された官民に脅威を与えること)により、駐留経費が割に合わなくなり、宗主国が独立を許さざるを得なくなったものが大半です。ハラスメントとは言論やオープンな武力行使ではなく、「テロ」の形をとることが多いものです。

 ガンジーの非暴力運動がイギリスに対して「道徳的衝撃」を与えたことは確かである。しかし、これは相手がイギリスだったからで、ナチス・ドイツやスターリンのソ連ならば、ガンジーは問答無用で殺されていただろう。
 インドの独立をもたらしたものは、「非暴力」ではない。端的に言えば「テロ」であった――というのだが。

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2008年6月27日 (金)

非暴力直接行動(6)

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 1930年3月12日、ガンジーは「塩専売法」を標的とした非暴力直接行動を開始した。彼はグジャラート州アーメダーバードの近くのサーバルマーティ・アーシュラムから200マイル南のダンディーの海岸まで、数十人の弟子と新聞記者を引き連れて「塩の行進」を開始した。海岸に着くと鍋を持って海に入り、天日で少量の塩を作って法を犯し逮捕を待った。こうして違法な塩を作る運動はインド全土に広がった。ガンジーが率いた最大の抵抗運動であった。数十万人が入獄した。
 UPI通信のアメリカ人記者ウェブ・ミラーは、5月21日、ボンベイの150マイル北にあるダラサナ製塩所へのデモ行進で起きた事件を次のように描写している。

 命令が発せられると、数十人の現地人警官が前進してくるデモ隊に襲いかかり、彼らの頭上に鉄を巻いたラーティーの雨を降らせた。誰一人、殴打を避けようと手を挙げる者はなかった。彼らはボーリングのピンのように倒れていった。私の立っているところからも、無防備の頭蓋骨を警棒が叩く怖しい音が聞こえた。後列の者は、警棒が振り下ろされるたびに自分が殴られたかのようにうめいて息を吸い込んだ。……彼らはひるまず、顔を上げ、音楽にも声援にも励まされず、重傷や死を避ける見込みもなく、ひたすら前進して行った。警官隊が襲いかかり、組織的機械的に第二列を打ち倒した。格闘はなかった。デモ隊は静かに前進して打ち倒された。

 藤井日達師はガンジーに南無妙法蓮華経を教えたのであるが、非暴力直接行動の方法はガンジーから学んだ。1956年の砂川と1930年のインドでは同じことが起きていた。

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2008年6月26日 (木)

非暴力直接行動(5)

 ベ平連の事務局長であった吉川勇一氏の「非暴力と非合法」(1998年8月1日)から引用する。全文はhttp://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N49/N49-11.html

一九五六年の砂川闘争
 いちばん有名なのは、一九五六年秋、東京都・砂川基地拡張阻止の運動の際、日本山妙法寺の僧侶たちがとった行動だろう。
 基地拡張のための強制測量を阻止しようとして、東京地区労の労働組合、全学連、平和団体などがスクラムを組む前で、黄色い衣を着け、団扇太鼓をたたく僧侶や信者たちが座り込んで読経を続けていた。退去を要求する何度かの警告の後、警察機動隊が排除にかかり、座り込む僧侶たちの頭の上に容赦なく棍棒を振り下ろした。この事件は当時、平和委員会のデモに加わってスクラムを組んでいた私の目の前で起こった。
 棍棒で頭を割られ、血が噴出し、倒れるものが次々と出ても、僧侶たちは動ぜず、ひたすら読経を続けた。機動隊の暴行によるその場面は、まさに凄惨と言うにふさわしいものだったが、私は、読経を止めぬ妙法寺の僧侶たちの行動に激しく心を打たれた。そのうち、警官のほうもそれ以上の殴打を止め、一人ずつ、引き抜いて連行してゆく方針に変えた。ついで、私たちのデモも引き抜かれ、二列に並んだ警官の列の間を一人一人、突き飛ばされ、殴られながら、離れた場所へつれて行かれた。だが、多くの参加者は、そこからまた遠回りの道を戻って再びピケット・ラインの後部についたのだった。

Nittatus

 日本山妙法寺は、藤井日達(1885-1985)が創立した日蓮宗の新宗教団体である。
 現在も世界各地で団扇太鼓をたたいて積極的な平和運動を展開している。成田空港(1978年開港)の建設反対運動にも関わり、4000メートル滑走路予定地に平和塔を建設した。この平和塔の移転に際しては、日本山妙法寺と運輸大臣等の間に「空港の軍事利用を行わない」という取極書がかわされた。

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 日蓮宗系の別の団体が「ガンジー、キング、イケダ」などととなえているが、あれは冗談である。本気にしてはいけません。
 ガンジーと関わりがあったのは藤井日達師である。日達師は1933年にインドでガンジーに会っている。当時63歳のガンジーと48歳の藤井日達師は意気投合したらしく、日達師はガンジーのアーシュラム(修業所)に滞在した。日達師はガンジーたちに「南無妙法蓮華経」を教えた。
 ガンジーとその晩年をともにした弟子によると、1930年代半ばから40年代半ばまで、アーシュラムでは毎朝4時20分に祈りの集会が始まった。まず、ひとりが小さな(団扇)太鼓をたたいて、日本語で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」ととなえるのだった。その後で2分間瞑想してから、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教などの祈りをとなえ聖歌をうたった。
「南無妙法蓮華経」がお題目であることはインド人には分からなかったと見えて、この弟子は「日本の僧侶が教えてくれた仏教のお経」と書いている。(続く)

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2008年6月25日 (水)

非暴力直接行動(4)

 非暴力直接行動について。
 しかし、議論なんてアホらしくなってきました。
 運送会社の倉庫に忍び込んで盗み出した鯨肉を堂々と見せびらかして、「横領を告発する」だって。

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 盗人猛々しい。三分の理もない。
 そんなことが日本で通用すると思っているのか? どこの国でだって通用しないよ。
 自分たちをマハトマ・ガンジーになぞらえるとは図々しい奴等だ。
 もちろん月とスッポンなので、まともに真面目に相手にしてはいけません。

 しかし、せっかくガンジーとの比較をやりかけたのだから、ちょっと極端な場合を考えてみよう。
 ガンジーはヒンドゥー教徒として「牛は神聖だ」と信じていた。もちろん牛肉は食べなかった。

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 南アフリカの支配者の白人はキリスト教徒だから、かわいそうにも牛の神聖性を知らない。ビフテキなんかを食べて罪を犯している。彼らを助けてあげなければならない。ガンジーは牧場、精肉所、レストランなどに対して非暴力直接行動を起こした――としたら、どうなっただろうか? 答えは明らかでしょう。

 ガンジーは1896年に殺されかけている。27歳のときだった。南アフリカに来て3年で、まだ非暴力直接行動は始めていない。在留インド人の人間としての尊厳を守るための言論活動をしていただけだ。
 一時帰国していたインドから戻ってダーバンの港に上陸したガンジーを白人の若者たちが見つけた。
「お前は新聞に載っていた男だな」と誰かが叫んでガンジーを後ろから蹴った。男たちは石や煉瓦のかけらをぶつけ、ガンジーのターバンを引きむしってパンチを浴びせはじめた。幸いにもダーバンの警察署長夫人が通りかかり、ガンジーを助けに駆け寄った。彼女はガンジーのそばに立って、パラソルをひろげて彼のむき出しの頭を守った。暴徒もさすがに警察署長夫人には手を出しかねてたじろいでいるうちに、警官隊が駆けつけ、ガンジーを知人の家に連れて行った。
 しかし暴徒は後をつけてきて家を取り囲み、焼き討ちにしてやると脅かした。警察署長が駆けつけて戸口に立った。彼は暴徒をなだめようと、「リンチにかけろ」という歌を一緒になって歌った。

  リンチにかけろ、ガンジーを
  酸っぱいリンゴの木に吊せ

 その間にガンジーの傷に手早く包帯が巻かれ、巡査たちが裏口から連れ出した。彼らは塀を乗り越え柵の間をすり抜け狭い裏道を通って、ようやく警察署に辿り着いた。署長がガンジーは逃げてしまったと告げ、群衆は解散した。

 危ないところだったのだ。この警察署長夫人のような人が出てくるのが英国文明の偉いところなのだが、それはガンジーのメッセージが届いていたからだ。「聖牛を守れ!」では駄目です。
 現代でも同じだ。アメリカやイギリスのマクドナルドの前でインド人が

  The cow is sacred. Beef-eating is a deadly sin.

というプラカードを掲げて立ったとしたらどうか。すぐにぶち殺されます。
 グリーンピース・ジャパンの諸君、日本人がおとなしいことに感謝したまえ。

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2008年6月24日 (火)

非暴力直接行動(3)

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 グリーンピース・ジャパンの諸君はマハトマ・ガンジーを引き合いに出すのだが?

 グリーンピースのやっていることは「非暴力直接行動」であるか?
 要件はまず
(1) 暴力を振るわない。
(2) 直接行動を行う。
 の2点だろう。当たり前だ。
 では「直接行動」とは何か? ガンジーのケースを例に考えてみよう。
 直接行動は
① 違法な行動である。ガンジーの場合は、移民制限法をはじめとする法律に違反することは明らかであった。
② したがって、刑罰を受けるのは当然である。
③ 違法であってもよいが、不道徳な行動であってはならない。

 ③を忘れてはならない。殺人や傷害は暴力である。盗みは「非暴力」ではあるが、不道徳な行動である。
 グリーンピース・ジャパンの諸君が西濃運輸の倉庫から鯨肉を盗み出したのは違法かつ不道徳な行動であった。「違法性が阻却される」というような理屈を述べている人がいるようだが、その前に「不道徳かどうか」を考えて欲しい。

 ①の違法性について。直接行動は大部分の場合に違法であり、例外的に「違法性が阻却される」ことがあるだけだ。
 たとえば、営業中の店の前に集団で立ちはだかって客が入るのを邪魔すれば、威力業務妨害で逮捕される。
 ところが、ストライキ中の組合員がピケを張るはどうだろう。これは正当な争議行為として認められるはずだ。この場合に威力業務妨害の違法性が阻却されるのは、法が労働運動に公益性を認めているからだろう。
 違法な(しかし不道徳ではない)直接行動に訴える者は、刑罰を受けることを覚悟するのである。
 グリーンピースが操業中の捕鯨船を妨害する行為はどうか? 南極海まで警察が逮捕に出向くわけには行かないだけだ。

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 写真はタンカーと母船の間に入り込んだグリーンピースの高速ゴムボート。詳しくはhttp://www.icrwhale.org/080414ReleasebougaiJp.htm

 直接行動については、さらに考えるべきことがある。

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2008年6月23日 (月)

非暴力直接行動(2)

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 1913年3月、キリスト教の儀式によらぬ結婚は無効だという理由でインド人労働者の妻の南アフリカ入国を認めないとする判決が下された。同時に「連邦移民制限法」が制定され、インド人の南アフリカ移住は実質的に禁止されることになった。
 同年9月、ガンジーは非暴力直接行動を開始した。彼は
「南アフリカ連邦中の監獄にできるだけ多くのインド人を送り込もうと決心した。これによって一連の反インド人法の非道徳性を浮き彫りにし、南アフリカの社会に道徳的変化をもたらすことができるかも知れない。」

 ガンジーの妻を含む同志16人が移住許可証なしでナタールからトランスヴァールへ州境を越え、逮捕を誘った。政府は挑発に乗って全員を逮捕し投獄した。
 数日後さらに11人が同じように逮捕されるべく、今度はトランスヴァールからナタールへ許可証を持たずに州境を越えた。しかし政府は今度は逮捕を控えたので、ガンジーの計画通り、11人はニューキャッスルまで36マイルを行進した。ここでは5000人のインド人年季労働者がヨーロッパ人所有の炭坑で働いていた。11人は炭坑夫を説得して、人頭税とサール判決に抗議するストライキに入らせた。……
 ガンジーは11月まで数千人のインド人を率いて抗議行動を続けた。
 ガンジーと同志たちは政府に対して
「我々はこれから移民制限法に違反する行為を行うから逮捕していただきたい」と通告した。しかし、政府は挑発に乗らず、ガンジーと同志たち全員が「国法陛下のホテルの客」となることはできなかった。
 ガンジーはこの間に三度逮捕された。彼は懲役6ヶ月または罰金60ポンドを宣告され、懲役を選んだ。
 ガンジーたちの運動は英国とインドの新聞に大きく報じられた。
 1914年1月、ヨーロッパ人の鉄道労働者が南アフリカ全土でストライキに入り、ボータ政権は存亡の危機に立たされた。ガンジーはただちに抗議行動を取りやめた。
「我々は敵の弱みにはつけ込まない」という理由だった。ガンジーの自伝によれば

 スマッツ将軍の秘書官の一人が苦笑して言った。「私は諸君を好まないし、助けてやりたいとも思わない。しかしどうすればよいのか。どうして諸君に手を挙げられるだろうか。諸君が英国人のストライキのように暴力を振るえば、こちらにもやりようがある。すぐに始末をつけてやる。ところが諸君は敵を傷つけようとしない。もっぱら我が身に苦痛を引き受けることで勝利を求めて、自ら課した礼儀と騎士道の限界を踏み越えない。こちらは手の出しようがなくて困ってしまうのだ」

 一九一四年六月、政府の代表でもなく官職もないガンジーは、スマッツ将軍と手紙をやりとりし会談を重ねて、あたかも対等の立場であるかのように交渉し協定を結んだ。ヒンドゥー教、イスラム教、パールシー教の伝統儀式による結婚はすべて有効と認められ、人頭税は廃止され、未納分の徴収は中止された。しかし連邦移住制限法は、政府側の形式的な譲歩として毎年六名の教育あるインド人の入国が認められたほかは、依然有効とされた。協定は妥協の産物だったが、ガンジーはこれを運動の勝利と考えた。
 この年、ガンジーは21年間を過ごした南アフリカを去った。以後はインドで非暴力直接行動を続けることになる。

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2008年6月22日 (日)

非暴力直接行動?(1)

 グリーンピースは非暴力直接行動をしているのだそうだ。

グリーンピースの非暴力直接行動は、たとえば有害な製品をつくる工場前に労働者や市民が座り込んだり、原生林の樹木に抱きついてチェーンソーによる伐採から守ろうとしたり、銃撃や砲撃のターゲットになった人や建物に「人間の盾」として身を寄せることで攻撃を思いとどまらせたりするのと同様、民主社会の機能不全を補う意図で行われる。自他の生命・身体を傷つけるやり方はしない。グリーンピースが、ガンジーやキング牧師など多くの先駆者から学んだこの非暴力原則を踏み外すことは、絶対にない。
(グリーンピース・ジャパン事務局長 星川淳氏 

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全文はhttp://www.greenpeace.or.jp/info/staff/jun.hoshikawa/monthlist_html?year=2008&month=1
 
 たしかにシーシェパードとは違って、acts of terrorismに手を染めたという証拠はないようだ。
 しかし「ガンジーやキング牧師など多くの先駆者から学んだ」などと自称する資格があるか? ない。断じてない。

 マハトマ・ガンジー(1869-1948)は、英国で弁護士資格を取り、1893年南アフリカに渡ったが、人種差別に衝撃を受け、在留インド人の権利を守る運動に取り組むようになった。

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(南アフリカの同志たちとガンジー)

 1908年1月、ガンジーはアジア人登録法による指紋捺印と登録を拒む運動を指導して同志たちとともに禁固2ヶ月の刑を受けた。最初の下獄であった。
 インド人問題担当相のスマッツ将軍は、ガンジーに対して「インド人が自発的に登録に応じるならば反対運動参加者を釈放し法律も廃止する」と約束した。ガンジーはためらったが妥協に同意し、二週間で釈放された。
 ところがスマッツ将軍は、やはりアジア人登録法は廃止しない、と言いだした。インド人が最後の一人まで自発的に登録したのではないから、インド人側が約束を破ったのだ、という口実だった。
 ガンジーと自発的に登録していた二千人以上の支持者は直ちにヨハネスバーグのハミダ・モスクの庭に集まり、自分たちの登録証を燃やした。ロンドンの『デイリー・メール』紙の通信員は、この事件をアメリカ独立戦争の契機となったボストン茶会事件(1773年)に喩えた。ガンジーが政治の問題で象徴的な行動を起こしたのはこれが最初だった。
 以後40年にわたってガンジーは非暴力直接行動によって戦い続けることになる。(続く)

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2008年2月27日 (水)

昔の英国の入学試験(2)

 コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。
 ヘスキス・ピアソンのドイル伝では

 In his last year he edited the College magazine, and at the end of his time amazed everyone by taking honours in the London Matriculation.

  ストーニーハースト校の最終学年に彼は校内誌を編集し、最後にthe London Matriculationで優等の成績を取ってみんなを驚かせた。

 このthe London Matriculationは、ガンジーの伝記に出てきたa London University matriculationと同じものだろう。

  ジョン・ディクスン・カーのコナン・ドイル伝

……彼は、けんめいに身を震わせながら、他の十三人の少年といっしょに、ロンドン大学の試験を受けた。その結果をつつみこんだ小包郵便が、ものすごく暑い七月の一日、ロンドンから到着して、校長室へ運びこまれた。
……受験した十四人のうち十三人がパスし、ストーニーハーストはじまって以来の好成績だった……
……アーサーは、単にパスしたばかりでなく、実に優秀な成績でパスしたのである。

 大久保康雄氏は「ロンドン大学の試験」と訳している。
 しかし、ロンドン大学の入学試験ではない。ドイルは合格してエディンバラ大学に入学したのだから。

 ガンジーの場合も、合格はしたけれども大学に入学はしなかった。英語の力をつけるために、力試しに受けただけである。ガンジーはインナー・テンプル法曹学院に入学した。こちらは無試験である。法律の授業はなかった。学生の義務は授業料を払うことのほかに、1年に24回、学院の食堂で夕食を取ることだけだった。入学してから3年後に弁護士資格試験があったが、これはごく簡単なもので、よほどの馬鹿でなければ合格した。
 だから、ガンジーは暇を持て余していた。社交ダンスやバイオリンを習ったり、菜食主義を広める運動をしたり、英国人女性に誘惑されかかったりして、3年を過ごした。彼はヒンズー教の聖典、バガヴァット・ギーターを初めて(英訳で)読んだ。ガンジーが「マハトマ」への道を歩み始めるのは、南アフリカに渡ってからである。このころは、まだボンヤリした青年である。
 
  ガンジーが1890年に合格したときは、ラテン語、フランス語、物理(「光と熱」)の3科目だった。(なぜ数学は不要?)
 コナン・ドイルが1875年に合格したときの科目は、カーやピアソンによる伝記には書いてない。

 ロンドン(ユニバーシティ)マトリキュレーションは、だいたい「大学入学資格試験」と訳しておけばよいだろう。要するに

(1)競争試験ではなく資格試験
(2)ロンドン大学が出題し採点した。
(3)オックスフォードとケンブリッジ以外の大学の受験生用

 コナン・ドイルたちはロンドンまでで受験に出かけたのではなく、スコットランドのストーニーハースト校で試験を受け、答案をロンドン大学に送ったのだろう。
 カーのドイル伝で「その結果をつつみこんだ小包郵便」と書いているのは、採点した答案を小包で送ってきたということだ。
 当時は現在のセンター試験のような馬鹿な制度(廃止しろ!)はなかった。試験は完全な「記述式」だったはずだ。それでもロンドン大学で全国の試験ができたのは、志願者が少なかったからだろう。
 志願者が多くて競争試験になったのは、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。そのための予備校がビジネスとして成立していたことは、モリアーティ元教授の職業(1)--(5)に書きました。

 1875年は明治8年である。このころ日本にはもちろん大学入試などなかった。大学の設立は明治10年になってからである。
 1890年は明治23年である。この年、夏目金之助(漱石)は帝国大学に入学している。(東京帝国大学と書くのはおかしい。大学はまだ一つしかない。)どういう試験を受けたか、漱石の伝記を読んでも書いてあるのを見たことがない。

 むかしはのんびりしていてよかった、ということです。

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2008年2月25日 (月)

昔の英国の入学試験(1)

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 1888年(明治21年)10月、19歳になったばかりのガンジー(モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー)は、客船クライド号から英国サウサンプトンの港に降り立った。
 彼はロンドンのインナー・テンプル法曹学院で3年間勉強して、バリスター(法廷弁護士)の資格を取ってインドに帰るつもりだった。

 以下は『ガンディーと使徒たち』pp.126-127から。

  英国に来てから数ヶ月の間、ガンディーは学業にはあまり身を入れなかった。彼はインナー・テンプル法曹学院に学生として登録しただけで、ほかにはほとんど何もしなかった。しかし、ウェスト・ケンジントンの下宿を引き払ってからは、もう少し真剣に取り組むようになった。当時のインナー・テンプルでは学業はほとんど形式的なものだった。学生は標準的な教科書を何冊か読んで、三年後にコモン・ローとローマ法の二科目の試験に合格すればよかった。試験はごく簡単なもので、ほとんど全員が合格した。学生の義務は、このほかに授業料を払うことと「規定の学期間在学する」ことであった。学生は、自分の所属する学院で一学期に六度夕食を取れば在学したものと見なされた。夕食は実際に食べる必要はなく、所定の時間に正装して食卓に着き一時間ほど坐っておればよかった。卒業するためには十二学期間在学する必要があり、一年は四学期だった。試験に合格し規定の学期間在学した後、学生は紳士として法曹倫理規範に従うことを誓い、バリスターの資格を与えられた。

 ガンディーは、法律書に取りかかる前にまずもっと英語の力をつけなければならないと思った。それにローマ法の研究にはラテン語の初歩も必要だった。彼はオックスフォードかケンブリッジに入学することも検討してみた。しかし、インナー・テンプルに籍を置いたまま大学にも行けなくはなかったが、時間と金が足りなかった。彼はその代わりにロンドン大学の入学試験を受けることにした。これはアーメダバードの試験よりもはるかに難しかったから、彼は受験予備校に通った。一八九〇年一月、彼はラテン語、フランス語、化学の三科目の入学試験を受けた。この試験は不合格で、彼は六月に再試験を受けた。今度は化学の代わりに「熱と光」という科目(この方が易しかった)を取り、合格した。

この本は私が訳したのですが、第2段落に誤訳があります。「ロンドン大学の入学試験」というのが間違い。これは「ロンドン大学の入学資格試験」としなければならない。

 原文は
He therefore settled on a London University matriculation--a much more rigorous examination than the Ahmedabad one--and on a cram tutorial school to help him prepare for that.

  matriculationという単語は知っているつもりだったので、辞書を引かなかった。リーダーズプラス英和辞典を引いてみると

matriculation
大学入学[入会]許可, 入学式; 【英】 大学入学資格試験《現在は GCE に取って代わられた》

 とある。GCDを引くと

GCE
【英】General Certificate of Education(一般教育証明書[試験])全国的に行われる試験で, S level, A level とそれより低いO levelがあったが, O levelは廃止; 大学入学の資格を認定する

 この間違いには、ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝を読んでいて気がついた。コナン・ドイルは1875年、ガンジーの15年前に大学入学資格試験に合格している。(続く)

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2007年9月10日 (月)

ガンジーと憲法9条(3)

 1918年3月、ガンジーはインド西部のケダー地区で納税拒否闘争を指導して勝利し、全国的な指導力の基礎を築いた。
 翌4月、ガンジーはインド総督の要請を受けて、インド人志願兵の募兵活動を開始した。(第一次世界大戦では、すでに8万人のインド人志願兵が英国陸軍に属して戦っていた。)
 非暴力をとなえるガンジーが英陸軍のために志願兵を募るとは何ごとか、と同志たちは非難した。これに対してガンジーは、次のように書いている。

 いまインド人には二重の義務があります。平和を説くならば、我々はまず戦う能力を証明しなければなりません。……戦う力のない国民には不戦の大義を論ずる資格はありません。

 1918年の時点では、ガンジーの目指していたのはインドの自治であって、まだ独立ではなかった。しかしその後も「戦う力のない国民には不戦の大義を論ずる資格はありません」という姿勢が変化したと信ずるべき証拠はない。

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立したとき、ガンジーはすでに政治の第一線から退いていた。独立インドの首相となったのは、盟友のジャワハルラル・ネルー(1889-1964)であった。

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 インドが独立すると、駐留イギリス軍は撤退してインドの陸海空軍がインドを防衛することになった。
 これに対してガンジーは反対をとなえたか?
 仮にガンジーが「無抵抗主義者」または「絶対平和主義者」であれば

 インド国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 と主張しただろう。
 しかし、インドにはパキスタンと中国という敵がある。軍備全廃はできない。どうすればよいか? 名案がある。イギリス軍に戻ってきてもらうのだ! せっかく追い出したのになあ。
 日本という国は、アメリカ軍を活用して、絶対平和主義の高遠な理想と安全保障を両立させているではないか。見習わない手はない!

 冗談はさておき

 ガンジーの暴力論The Mind of Mahatma Gandhiより

 卑怯にも危険から逃れてはならない。逃げる者は精神的なヒンサー(暴力)を振るうのだ。逃げるのは、殺そうとして殺されるだけの勇気がないからだ。
  私の非暴力は決して力を失わせない。このような非暴力を通じてのみ、国民は危機に際して欲するならば統制のとれた暴力を行使することができるようになる。
 私のとなえる非暴力は極めて能動的な力である。そこには卑怯や弱さの余地はない。暴力的な男はいつの日か非暴力を学ぶ望みがある。卑怯者には何も期待できない。再三述べてきたように、自分と女性と礼拝所とを受難によって非暴力で守ることができないのであれば、男である以上、戦って守らなければならない。
 いかに肉体の力が弱くても、逃げるのは恥である。我々は持ち場を守って死ななければならない。これこそが非暴力であり同時に義勇なのだ。いかに弱くともあらん限りの力を振り絞って敵に危害を加え、その過程で死ぬ――これは義勇であり、非暴力ではない。危険に立ち向かうことが義務であるのに逃げるのは、卑怯である。  
 私は非暴力をとなえる。しかし、非暴力を守ることができない人、守るつもりがない人がいることを認める。その人たちが武器を取りこれを使うことを認める。何度でも繰り返すが、非暴力は弱者のものではない。強者のものなのだ。
 危険に直面しないで逃げることは、人と神と自身に対する信頼を否定することだ。このような精神的破綻状態で生きるよりは入水して死んだ方がましだろう。

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ガンジーと憲法9条(2)

 ガンジーは「いかなる場合も暴力はいけない」とは主張しなかった。「卑怯と暴力といずれかを選ばねばならないとすれば、私は暴力を選ぶ」が彼の立場であった。
 
 1908年、39歳のガンジーは南アフリカでインド人登録法に反対する運動を指導していた。ところが、方針の違いをめぐって支持者から暴行を受けた。

 彼の支持者の一部、特に獰猛なパターン人は、彼が誓いに背いて信頼を裏切ったと思った。ミール・アーラムというパターン人は、依頼人としてよくガンディーに相談しに来ていた男だったが、最初に登録する者を殺すと誓っていた。ガンディーが登録事務所に入ろうとしたとき、ミール・アーラムが彼の頭を殴って気絶させた。アーラムはパターン人の仲間と一緒に彼を蹴ったり殴ったりし始めた。ガンディーは通りかかったヨーロッパ人と警察に救われ、英国人の友人の事務所に運ばれた。意識を取り戻すと彼はすぐに登録をすると言い張ったので、当局はその場で登録をさせた。彼は友人宅で十日間傷の養生をした。
(『ガンディーと使徒たち』p.168)

 このときのことについて、ガンジーは次のように書いている。

 卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったか――逃げ出してわたしを見殺しにするべきか、それとも、彼の用いることのできる、また用いようと思う腕力に訴えてわたしを護るべきであったかと訪ねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務であると語ったのである。(『わたしの非暴力(1)』p.5)

 ガンジーは我が身への暴力には無抵抗を貫く覚悟だった。自分を「殺す」と言う者がいれば甘んじて殺されるつもりだった。しかし、20代半ばの長男(ガンジーは13歳で結婚した)に対しては、「もしその場に居合わせたら、断固として暴力に訴えて父親を守るべきだ」と要求したのである。
 仮に彼の妻や子が目の前で暴行を受けるようなことがあったとすれば、ガンジーはどうしたか? 暴力に訴えて妻子を守ったに違いない。
 
 ガンジーは1915年にインドに帰国し、1920年ごろから国民会議派を指導するようになり、やがてマハトマ(偉大なる魂)と呼ばれるようになった。
 ガンジーを最も悩ませたのは、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の間の衝突、宗教暴動であった。1926年、ヒンドゥーの村がムスリムの略奪にあった事件のあと、ガンジーは次のように書いている。

 弱い者にかぎって、自分が臆病であるために、自分自身の名誉や配下の者の名誉を護ることができなくなったときに、会議派の信条とかわたしの助言を隠れ蓑にしてきたことは、わたしもしばしば指摘してきたところである。非協力運動が最高潮に達したときに、ペディア付近で起こった事件のことを思い出す。村人が何人か略奪に遭った。彼らは、妻も子も所持品も略奪者のなすがままにして逃亡したのである。わたしがこのように責任を顧みなかった彼らの卑劣さを非難すると、彼らは臆面もなく、非暴力を言い訳にした。わたしは公然と彼らの行為を非難して言った――わたしの非暴力主義は、非暴力のことは考えるいとまもなく、ただ女や子供達の名誉を守った者たちのふるった暴力と完全に調和する、と。非暴力は臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳である。非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気が要る。臆病は全く非暴力と相容れない。(『わたしの非暴力(1)』p.51)

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2007年9月 9日 (日)

ガンジーと憲法9条(1)

日本国憲法第9条 

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(昭和21年11月3日公布 昭和22年5月3日施行)

Mahatmagandhiindianhero_2

 マハトマ・ガンジー(1869-1948)や「ガンジーの無抵抗主義」なるものを第9条の擁護に持ち出す議論がある。
 これは誤解に基づいている。憲法第9条とガンジー主義はまったく違うものだ。

(1) ガンジーは無抵抗主義者ではなかった。
 ガンジーは非暴力によってイギリスのインド支配に激しく抵抗したのだ。→ガンジーは無抵抗主義者か1-4

(2) ガンジーは卑怯よりは暴力を選ぶべきだと主張した。
ガンジーは暴力を選ぶ
 この点は、ガンジーの伝記に即してもう少し詳しく説明する。

(3) ガンジーは独立インドが軍備を全廃し非武装の国になるべきだなどとは主張しなかった。軍隊は必要だと考えていたはずである。
 これについても、伝記に即した説明が必要だろう。

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2007年7月 4日 (水)

奈良の正倉院(4)

 1922年(大正11年)には、前年の皇太子訪英の答礼として英国の皇太子(正式にはプリンス・オブ・ウェールズ)エドワードが来日した。
 英国皇太子、後のエドワード8世は、1921年に巡洋戦艦レナウン号に搭乗して英国を出発した。まずインドを訪問してから、日本にまわるという旅程だった。

 インドでは1920年、ガンディー(ガンジー)の「非協力」が国民会議派の綱領に採択された。インドは彼の指導の下にスワラージ(自治)に向かって歩み始めた。このとき彼は51歳であった。

 一九二一年、ガンディーはインド全土を巡る旅に出た。彼は会議派の党員に助言を与え新党員を獲得するために、どんな辺鄙な村にも入っていった。彼は托鉢僧や行者のように白いカーディーのドーティー(腰布)を身にまとうようになった。彼が来ると聞くと、村人は一目姿を見てダルシャンにあずかろうと駅に押し寄せた。彼はサティヤーグラハとアヒンサーについて、あるいは南アフリカでの経験について、短い話をした。彼は自ら選んだ貧困、謙譲、単純で気高い生活で知られ、マハトマと呼ばれるようになった。

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 初めのうち、政府は非協力運動を黙殺していた。馬鹿げたヒステリックな運動で、すぐに消滅すると予想したのである。しかし運動が本格化してくると、これは法と行政の全体系を脅かすことが政府にも分かってきた。政府はガンディーの動きを見守り始めた。一九二一年十一月、英国皇太子がボンベイを訪問したが、彼の訪問は市民にボイコットされ、暴動と放火が続発した。その後インドの各都市で集会と行進が禁止され、会議派の事務所は深夜の捜索を受け扇動的文書が押収された。一九二二年一月までに、三千人の会議派党員が投獄された。
(『ガンディーと使徒たち』p.193)

 日本に着いたのは1922年4月12日であった。1921年11月にボンベイ(現在のムンバイ)でボイコットされてから日本着までの間は、ビルマ、香港などを訪問していたらしい。
 日本ではインドとは打って変わって大歓迎であった。プリンス・オブ・ウェールズは5月9日まで滞在した。
 次は日本での足跡を見てみよう。

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2007年5月15日 (火)

ガンジーは無抵抗主義者か(4)

 ガンジーのことが全く分かっていないと坂口安吾を責めてみても仕方がない。1950年の日本人は大変だったのだ。インドのことなんか知るものか。
「婦女子が犯されてアイノコが何十万人生れても、無関心」などと言うけれど、「自分の奥さんならどうだ?」という反問も無意味だろう。幸いにそこまで突き詰めて考える必要はなかったのだ。
 インドは違った。
『ガンディーと使徒たち』pp.239-240

 南アフリカとインドで不正と抑圧と宗教紛争に対するガンディーの市民的不服従運動の原動力となったのは、真理と非暴力であった。この真理と非暴力の信念は、一九四六年、ノーアカーリーで最も厳しい試練にさらされた。ノーアカーリーは当時の東ベンガル州、現在のバングラデシュに属し、ガンジス川とブラフマプトラ川の作る三角州にある辺鄙な湿地帯である。当時ノーアカーリーの人口二百五十万人のうち、十八パーセントがヒンドゥー教徒、八十二パーセントがイスラム教徒であったが、少数のヒンドゥー教徒が土地の四分の三を所有し、イスラム教徒の大部分はほとんど農奴と異ならない境遇にあった。この年の十月、イスラム教徒の暴動が始まった。彼らはヒンドゥー教徒を拷問して殺し、ヒンドゥー教徒の女性を誘拐して犯した。ヒンドゥー教徒の店を略奪し住居を焼き、寺院に侵入して神像を壊した。ヒンドゥー教徒にコーランを唱えさせ、自分の牛を殺して食うことを強要した。この暴動はインド分割とパキスタン建国に伴う宗教暴動の中でも最も凶暴だった。また、宗教暴動が地方にまで及んだのはこれが最初だった。ガンディーにとってこれは特に恐ろしいことだった。インド人の大部分が住む村落地帯については、彼は自分の知識に誇りを持っていたからである。ノーアカーリーでヒンドゥー教徒を村に戻し、イスラム教徒に対しては彼らを受け入れて兄弟として愛するように説得できるだろうか。これができるならば最終的に暴力を封じ込める希望が持てるだろう。そして宗教的寛容と統一をインド全体に説得できるだろうと彼は考えた。弟子と献身的な志願者の一団を伴って、彼は平和と和解の使命を帯びてノーアカーリーに向かった。彼は七十七歳だった。インド当局からも支持者たちからも彼は警告を受けていた。常に正統派であったノーアカーリーのイスラム教徒は今や狂信的になっている。彼は間違いなく暗殺されるだろう。インド亜大陸全体がまさに彼が沈静させようとしている暴力の渦に巻き込まれることになるというのである。「何が起ころうとも覚悟はできている」と彼は従弟のナランダース・ガンディーへの手紙に書いている。「まさに命がけなのだ。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が平和に共存できるか、私が死ぬかだ」

The Mind of Mahatma Gandhiから
 

  ヒンドゥー教徒もムスリムも、殺さず自ら死ぬ勇気を培って欲しい。もしその勇気がなければ、せめて殺し殺される術を身につけることだ。卑怯にも危険から逃れてはならない。逃げる者は精神的なヒンサー(暴力)を振るうのだ。逃げるのは、殺そうとして殺されるだけの勇気がないからだ。
  私の非暴力は決して力を失わせない。このような非暴力を通じてのみ、国民は危機に際して欲するならば統制のとれた暴力を行使することができるようになる。
 私のとなえる非暴力は極めて能動的な力である。そこには卑怯や弱さの余地はない。暴力的な男はいつの日か非暴力を学ぶ望みがある。卑怯者には何も期待できない。再三述べてきたように、自分と女性と礼拝所とを受難によって非暴力で守ることができないのであれば、男である以上、戦って守らなければならない。
 いかに肉体の力が弱くても、逃げるのは恥である。我々は持ち場を守って死ななければならない。これこそが非暴力であり同時に義勇なのだ。いかに弱くともあらん限りの力を振り絞って敵に危害を加え、その過程で死ぬ――これは義勇であり、非暴力ではない。危険に立ち向かうことが義務であるのに逃げるのは、卑怯である。  
 私は非暴力をとなえる。しかし、非暴力を守ることができない人、守るつもりがない人がいることを認める。その人たちが武器を取りこれを使うことを認める。何度でも繰り返すが、非暴力は弱者のものではない。強者のものなのだ。
 危険に直面しないで逃げることは、人と神と自身に対する信頼を否定することだ。このような精神的破綻状態で生きるよりは入水して死んだ方がましだろう。

 彼は1948年1月30日、暗殺された。

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2007年5月13日 (日)

ガンジーは無抵抗主義者か(3)

 非暴力と不服従によって英国のインド支配にあくまで抵抗したのがガンジーの運動であった。
「ガンジーの無抵抗主義」などという誤解はどこから生じたのか?

 1950年(昭和25年)、文藝春秋3月号に坂口安吾が書いた「安吾巷談 野坂中尉と中西伍長」の一部を見てみよう。(青空文庫をコピーさせていただきました。全文はここ

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 戦争抛棄という世界最初の新憲法をつくりながら、ちかごろは自衛権をとなえ、これもあやしいものになってきた。
 吉田首相は官吏の減少を国民負担の第一条件と断定しながら、軍備を予定しているとしたらツジツマの合わぬこと夥しいではないか。
 軍人一人と官吏一人では、国民の負担の大きさが違う。軍人一人には装備という大変な重荷がついている。原子バクダン時代に鉄砲一つの兵隊なら、ない方がよろしい。戦車でも、おかしい。要するに、ない方がよろしい。
 無抵抗主義というものは、決して貧乏人のやむを得ぬ方法のみとは限らないものだ。戦争中に反戦論を唱えなかったのは自分の慙愧するところだなどゝ自己反省する文化人が相当いるが、あんなときに反戦論を唱えたって、どうにもなりやしない。自主的に無抵抗を選ぶ方が、却って高度の知性と余裕を示しているものだ。
 ガンジーの無抵抗主義も私は好きだし、中国の自然的な無抵抗主義も面白い。中国人は黄河の洪水と同じように侵略者をうけいれて、無関心に自分の生活をいとなんでいるだけのことだ。彼らは蒙古人や満洲人の暴力にアッサリ負けて、その統治下に属しても、結局統治者の方が被統治者の文化に同化させられているのである。
 こういう無関心と無抵抗を国民の知性と文化によって掴みだすことは、決して弱者のヤリクリ算段というものではない。侵略したがる連中よりも、はるかに高級な賞揚さるべき事業である。こういう例は日本にもあった。徳川時代の江戸大坂の町人がそうだ。彼らは支配者には無抵抗に、自分の生活をたのしみ、支配者よりも数等上の文化生活を送っていた。そして、支配者の方が町人文化に同化させられていたのである。
 戦争などというものは、勝っても、負けても、つまらない。徒らに人命と物量の消耗にすぎないだけだ。腕力的に負けることなどは、恥でも何でもない。それでお気に召すなら、何度でも負けてあげるだけさ。無関心、無抵抗は、仕方なしの最後的方法だと思うのがマチガイのもとで、これを自主的に、知的に掴みだすという高級な事業は、どこの国もまだやったことがない。
 蒙古の大侵略の如きものが新しくやってきたにしても、何も神風などを当にする必要はないのである。知らん顔をして来たるにまかせておくに限る。婦女子が犯されてアイノコが何十万人生れても、無関心。育つ子供はみんな育ててやる。日本に生れたからには、みんな歴とした日本人さ。無抵抗主義の知的に確立される限り、ジャガタラ文の悲劇などは有る筈もないし、負けるが勝の論理もなく、小ちゃなアイロニイも、ひねくれた優越感も必要がない。要するに、無関心、無抵抗、暴力に対する唯一の知的な方法はこれ以外にはない。

「ガンジーの無抵抗主義も私は好きだし」と坂口安吾は書いているが、とんでもない誤解である。時代を考えれば無理もないのかも知れない。
「安吾巷談」は1950年1月号から文藝春秋に連載が始まった。3月号の「野坂中尉と中西伍長」は同年1月のコミンフォルムによる日本共産党批判を受けている。この批判によって、共産党は野坂参三らの所感派と宮本顕治らの国際派に分裂する。スターリン元帥に比べれば野坂参三は中尉くらいの格だというのである。
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  言うまでもなく敗戦は1945年8月15日である。1950年当時の首相は民自党の吉田茂。ガンジーは1948年1月30日に暗殺されている。

1945年8月15日 敗戦
1946年1月1日  天皇人間宣言
     11月3日  日本国憲法公布(47年5月3日施行)
1947年1月31日 2・1ゼネスト中止指令
       8月     インド・パキスタン独立
1948年11月    極東国際軍事裁判最終判決
1949年10月    中華人民共和国成立
1950年8月      警察予備隊設置
      11月     レッドパージ開始
1951年6月      朝鮮戦争勃発
       9月      サンフランシスコ平和条約調印

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2007年5月12日 (土)

ガンジーは無抵抗主義者か(2)

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 受動的抵抗passive resistanceという言葉は、ガンジーが初期にサティヤーグラハの訳語として使っていたものである。

 1906年、南アフリカのトランスヴァール政府は、インド人の移住を禁止するために「アジア人登録法」を制定しようとしていた。ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』によれば

……この法律が成立すれば、トランスヴァール在住のインド人はすべて指紋を採られ、政府発行の登録証を常時携帯しなければ罰金または懲役に処せられるか本国に送還されることになった。登録を許されるのは法律の成立時にトランスヴァールに在住しているインド人だけだった。インド人たちは犯罪者のように指紋を採られたくなかったし、犬が首輪に鑑札をつけるように登録証を持ち歩きたくなかった。さらに、もしこの法律が通れば、インド人をすべてトランスヴァールから、やがては南アフリカ全土から追い出すために使われる恐れがあった(当時トランスヴァールには約一万三千人、南アフリカ全土では約十万人のインド人がいた)。またほかの植民地でも同じような法律が作られるかも知れなかった。
 ガンディーの指導の下に、トランスヴァール在住のインド人はアジア人登録法に対する反対運動を開始した。ヨハネスバーグの古いエンパイア劇場で大集会が開かれ、作戦計画が練られた。「法律が成立すればインド人は処罰を覚悟して抵抗する」という決議案が提出された。討論が始まると、一人の男が立ち上がって激しい口調で発言した。余人は知らず自分は、神を証人として、絶対に登録には応じないと彼は言い切った。ガンディーはこの男が神の名を口にしたことに打たれた。ガンディーは出席者に注意を促した。もし「神を証人として」決議案に賛成するならば、厳粛な誓約をしたことになり、決して取り消すことはできません、と彼は言った。「この決議は多数決では採択できません。誓約によって他人の行動を左右することはできないからです。……各人が自分の心を検討して下さい。自分は最後まで戦い抜く力があると、内なる声が告げているでしょうか? その場合だけ、誓いを立てるのです。誓いが実を結ぶのもその場合だけです」エンパイア劇場に集まった者全員が立ち上がり、右手を挙げて、神を証人として、自分は決して登録には応じないと一斉に誓った。政治的権利のための闘いとして始まった運動が、魂の救済の闘いとなったのである。救済の達成は、ガンディーが確信し始めていたように、真理と愛を通じてのみ可能であった。サティヤーグラハの力、ガンディーが生涯をかけて精錬して行くことになる原理を通じてのみ可能であった。
 この前後にガンディーはこう書いている。

 サティヤーグラハは「受動的抵抗」と英訳される。この言葉は、苦痛を我が身に引き受けることによって権利を獲得する方法を指す。これは武器による抵抗の反対である。良心に反することを為すのを拒むとき、私は霊の力を使う。たとえば、時の政府が私に適用される法律を作ったとする。私はその法律に反対である。もし暴力に訴えて政府に法律を撤回させるならば、私は肉体の力を使う。法律に背いて処罰を受け入れるとすれば、私は霊の力を使うのである。これは自己犠牲を伴う。……さらに、仮にこの力が不正な目的に使われたとしても、害を受けるのは使った者だけなのだ。
(同書pp.166-167)

 受動的抵抗passive resistanceという言葉はあまりに消極的であるとして、ガンジーはやがて自身の造語サティヤーグラハSatyagrahaをそのまま使うようになった。
 英語の辞書でこの語について正しい記述をしているのはランダムハウス英和辞典である。

Satyagraha
【1】(インドで)サティヤーグラハ[真理把持]運動:1919年 M.K.Gandhi が政治的社会的改革の方法として始めた非暴力不服従抵抗政策.
【2】(一般に)非暴力不服従運動.
[1920.<ヒンディー語=サンスクリット語 satya 真理+agraha 強い愛着,固執]

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2007年5月11日 (金)

ガンジーは無抵抗主義者か(1)

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 マハトマ・ガンジーが無抵抗主義者であったというのは誤解である。
 ガンジーは非暴力をとなえたが、無抵抗を勧めたことはない。
 マハトマ・ガンジー全集は英語版で全100巻あり、全部を読んだ人は一人もいないだろう。だから確言することはできないが、ガンジーが無抵抗という言葉を肯定的文脈で用いたことはないはずだ。

 三省堂のニューセンチュリー和英辞典で「無抵抗」を引くと、訳語はnonresistanceとなっている。これは正しいが、続いて挙げられている次の例文は間違っている。

インドはマハトマ・ガンジーの無抵抗主義による諸政策に導かれてついに英国の支配から独立した。
India led by Mahatma Gandhi's policies of passive resistance, finally gained its independence from the British rule.
 
 policies of passive resistanceは「無抵抗主義による諸政策」ではない。
 passive resistanceを訳するならば「受動的抵抗」である。「無抵抗」などという訳は、どこをどうひねっても出てこないはずだ。

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2007年5月10日 (木)

ガンジーは暴力を選ぶ

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 もし卑怯と暴力のいずれかを選ばなければならないとすれば、私は暴力を勧める。……インドは、もし必要ならば自らの名誉を守るために敢然と武器を取るべきであって、卑怯未練にも不名誉を甘受してはならない。
 非暴力は暴力にはるかに勝り、寛恕は制裁よりも男らしいと私は信ずる。寛恕は戦士の特性である。……しかし非暴力が寛恕であるのは、制裁の力があるときだけである。無力な者が許す振りをして見せても無意味である。
(出典 The Mind of Mahatma Gandhi)

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2007年3月19日 (月)

ガンジーの実像?

 晩年になって、彼の禁欲の誓いの守り方に、非難が寄せられた。周知の通り、彼は、絶えず献身的な若い女性に取り巻かれていた。彼は、彼女らを自分のベッドで寝させるのが習慣となり、彼を暖めるために、服を脱いで彼の裸体に身体をぴったり寄せて寝るよう要求した。ニルマル・クマル・ボーズという弟子が、この変わった習慣を暴露した。問いつめられたガンジーは、最初は、裸の女性を横にして眠るということを公然と否定し、その後、それはブラフマーチャリヤの実験であると言った。ボーズは、何ら精神性のない実験のために女性の身体を利用するのは、女性の軽蔑であると反論した。
 ガンジーは、若い女性に自分の身体を洗ってもらい、マッサージをしてもらった。正統ヒンドゥー教徒も、厳しい禁欲を課されていた弟子達も、これにショックを受け、ガンジーのブラフマーチャリヤの解釈を嘲笑した。ガンジーの姪アバ・ガンジーは、ボーズの暴露を確認し、結婚してからもガンジーと寝ることを習慣にしていることを認めた(1) 。もう一人の姪マヌも、1962年から1967年にかけて厚生大臣をつとめた女医スシラ・ナヤルも、ガンジーを暖めた女性であった。スシラ・ナヤルは、最初はブラフマーチャリヤはいっさい問題にされなかったと断言した。ガンジーがそれを言い出したのは、人がこの習慣を聞きつけ、許しがたいと思うようになってからである。彼の傍らに生活していた若い女性は、彼とかなり曖昧な関係を持っていたようである。マドレーヌ・スレイド、別名ミラベンは、敬愛のしるしに長い髪を切り、別離のたびに心を痛めた。もう一人の女性は、ある日、裸になり、ガンジーの腕に抱かれた(3)。ドゥルヴェの伝記も、ガンジーの周囲には一種の女性のとりまきが会ったことを認めている(4)。

(1)V・メヘター『マハートマー・ガンジーとその弟子たち』200-201頁
(2)同前、203頁
(3)同前、221-222頁および213頁
(4)C・ドゥルヴェ『ガンジーとインドの女性』パリ、1959年、128頁

(以上は白水社文庫クセジュ『ガンジーの実像』p.p.154-155  本文に注(2)はない。)