2009年2月17日 (火)

菜食主義のレストラン(3)

 1888年10月から1991年6月の英国滞在中、菜食主義者との交際はガンジーの生活に大きなウェイトを占めていた。特に『菜食主義のためにA Plea for Vegetarianism』の著者ヘンリー・ソールト(1851-1939)からはヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-62)の著作を紹介され大きな影響を受けた。
 ガンジーは21歳でイギリスを去ったが、1931年、61歳になってロンドンを訪れ、ヘンリー・ソールトと再会した。

 1930年1月1日、ガンジーの指導する国民会議派はインド独立の旗を公然と掲げ、完全独立の闘争を開始した。同年3月12日、塩専売法に反対する「塩の行進」に始まった市民的不服従運動は大きな反響を呼んだ。同年10月のロンドン円卓会議にガンジーと会議派は参加を拒否したが、インドに新たに連邦政府を作り、地方と中央でインド人に一定の責任のある自治政府の結成を許すことが合意された。
 翌1931年9月7日から12月1日までロンドンで開かれた第二次円卓会議には、ガンジーが国民会議派を代表して参加した。

 ガンディーの訪英は大きな波紋を呼び、彼はこれを最大限に活用した。彼はオックスフォード大学やランカシアの木綿工場を訪れ、チャーリー・チャップリンやジョージ・バーナード・ショーに面会し、世界各国のジャーナリストのインタビューを受けた。そのような機会に彼がしばしば強調したのは、『インドの自治』で初めて説いた単純でロマンティックな理想だった。歴史を通じて、西洋は暴力と帝国主義に支配されてきたが、これに対して東洋では愛と霊性、アヒンサーとサティヤーグラハが支配し、彼自身は東洋から西洋への伝道師であるというのだった。
(『ガンディーと使徒たち』p.202)

Charliechaplinandgandhi

  ガンジーは、1931年11月20日にロンドン菜食主義者協会の会合に出席して「菜食主義の道徳的基礎」について演説した。
「……私の右にヘンリー・ソールト氏が坐っておられることを特に名誉と感ずるのであります。ソールト氏の著作『菜食主義のために』を読んで、私は先祖から受け継いだ習慣や母親に対する誓いを別にしても、菜食主義が正しいということを悟ったのであります。我々の同胞である動物を食べないことが菜食主義者の道徳的義務であると、教えられたのであります。……」
演説全文は http://www.ivu.org/news/evu/other/gandhi2.html
 
Gandhi1931  
 ガンディーの右のテーブルについている男がヘンリー・ソールトである。40年ぶりの再会であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月16日 (月)

菜食主義のレストラン(2)

 英国菜食主義者協会Vegetarian Societyの一番有名なメンバーは、マハトマ・ガンジー(1869-1948)である。
 1888年10月、19歳になったばかりのガンジーは、客船クライド号からサウサンプトンの港に降り立った。このころ撮られた写真では、彼は濃い髪の毛をやや右で分け、大きな尖った鼻、厚い唇、やや不安げな目をしている。

Gandhi9

 ガンジーはバリスター(法廷弁護士)の資格を取るためにインドを出てきたのだった。彼は11月6日にインナーテンプル法曹学院に学生として登録した。3年足らず在学するだけで勉強はほとんどしなくてもよかった。ごく簡単な試験があったが、よほどの馬鹿でなければ合格して弁護士になれた。ガンジーも1991年6月10日にバリスターの資格を取り、12日には帰国の途についた。
 困ったのはインドとの習慣の違いだった。英国は寒いから肉を食べなければやって行けないと忠告されたが、ガンジーはヒンドゥー教徒として菜食を守るつもりだった。「英国へ行っても肉と酒と女には近づかない」と母親に誓っていた。

 ガンジーは下宿で自炊し、菜食主義のよいレストランを探して何日もロンドン中を歩き回った。シティ・アンド・サバーバン銀行のコーバーク支店とマクファーレン馬車製造所の倉庫に挟まれた菜食主義のレストラン(ワトソンは店名を記録していない)も当然訪れたはずである。
『ガンディーと使徒たち』を見てみよう。

  ガンディーは菜食主義のよいレストランを探して何日もロンドン中を歩き回ったが、ようやくファリントン街でセントラル・レストランを見つけた。これはロンドンで一番の菜食主義レストランだった。彼はここで故郷を出てから久しぶりにまともな食事にありついた。彼はセントラルの常連となった。セントラルは彼の食堂、クラブ、本屋になった。セントラルを通じて、彼は菜食主義運動が英国だけでなく世界中に拡がっていることを初めて知った。彼はここでヘンリー・ソールトの『菜食主義のために』、ハワード・ウィリアムズの『食の倫理』、アンナ・キングズフォードの『完全なる食事法』などを買って読んだ。ソールトとウィリアムズにもセントラルで会うことができた(アンナ・キングズフォードは亡くなったばかりだった)。彼がセントラルで会った菜食主義の指導者にはジョサイア・オールドフィールドもいた。彼は弁護士で医師であり、病気の治療法として野菜と果物だけを食べる食餌療法と自然療法を勧めていた。またT・A・アリンソン博士も同じように菜食主義を勧める医師だった。セントラルに集う人々は、シェリー、ソロー、ラスキンなどの詩人や思想家の信奉者で、彼らによれば、菜食主義は虚弱なインド人だけの食事法などではなく、万人にとって人道的で道徳的な唯一の食事法であった。菜食主義は、食べるために生き物を殺す必要がないから、自然と調和した食事法である。肉を通じて伝染する病気とは無縁であるから、最も健康的である。野菜、穀物、果物、木の実などは肉と比べれば栽培の費用が安いから、経済的である。家畜を飼育する代わりに同じ面積の土地で野菜や果物を栽培すればはるかに多くの人を養うことができるから、土地活用の面でも効率がよい。農業人口が多ければ安定と繁栄に繋がるから、国民性の強化に役立つ。菜食主義は、人道的な非暴力の価値を慫慂する道徳的な力であった。菜食主義の普及のために、菜食主義者たちは英国、アメリカ、オーストラリアなどの国々に菜食主義者協会を設立していた。
 ガンディーはベイズウォーターのジョサイア・オールドフィールドの家の近くに引っ越し、西ロンドン食物改革協会の創立会員になった。オールドフィールドが会長になり、詩人のサー・エドウィン・アーノルドが副会長になった。ガンディーはほかの会員たちと近所の家を訪ね歩いて、菜食主義と平和を説き、菜食料理の作り方を教えた。ガンディーはロンドン菜食主義者協会でも目立った役割を果すようになった。彼は協会の執行委員となり、週刊機関紙『ヴェジタリアン』とマンチェスターの姉妹紙『ヴェジタリアン・メッセンジャー』に寄稿した。(pp.128-9)

Gandhi1890
1891年、菜食主義者協会の会合におけるガンジー(前列右)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 4日 (金)

コナン・ドイル卿? (2)

 1902年1月9日、ドイルはパンフレットを書き始め、毎日16時間書いて、17日には
The War in South Africa: Its Cause and Conduct
南アフリカの戦争――その原因と経過
 という6万語のパンフレットを仕上げた。
「私の個人的見解はできるだけ表へ出さず、目撃者の言を、農家の炎上とか暴行とか集中キャンプとかその他の論争問題について、その多くはボーア人であるが、書き記した。説明はなるだけ簡単に短くしたが、事実の正確さについてはどこまでも一貫し、焼けた農家の実数についてだけは自身がないけれど、といっても重大な質問を受けたことは一度もない。私の記述が充実しており効果的であるのを重いながらペンをおいたときは、うれしくてたまらなかった」(『わが思い出と冒険』p.231)

ドイルはこのパンフレットの刊行のために寄付を募った。パンフレットを書き終えるころには1000ポンドほどが集まった。
「多くはあまり余裕もない中から無理をして送ってよこした少額の金であった。中でもきわだった特徴は、毎日のように目の前で行われる中傷に答えることができないのでみじめにされている外国在住の女教師(家庭教師)からの寄付の多いことだった。」(p.232)
  2ヶ月ほどで英語版は30万部ほどを売り上げた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ハンガリー語、ロシア語など20カ国語の訳本が出版された。これによって
「大陸の諸新聞の論調に急速な著しい変化が現れた。」(p.238)
 少なくとも「英軍の残虐行為」という悪評はドイルの努力によって払拭された。
「ここまできて私の胸底に深く印象の残っていることは、政府が自分のことなのに十分の説明と防衛策に出なかったことである。一個人が三千ポンドを費やして、一ヶ月という短い期間に世界中の世論に著しい感銘を与え得たのだから、真に資力も知能もある組織ならば、どんなことができるであろう?」(p.240)

Boers

 ボーア人の部隊。
 ボーア人はゲリラ戦を挑んだ。英軍は苦戦を強いられ、ゲリラへの補給を絶つために女子供を含む12万人をconcentration camp強制収容所に収容し、農地や農場を焼き払った。収容所では2万人が死亡した。
 しかし、大陸の新聞で伝えられたような「残虐行為」は、白人であるボーア人に対しては行われなかった。

 1906年、南アフリカは英国領となっていたが、ズールー族の酋長が徴税官を投槍で殺し、これをきっかけにズールー族の反乱がはじまった。
 当時南アフリカにいた37歳のガンジーは、大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、在住インド人による篤志救急隊を組織した
 ガンジーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンジーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。
(『ガンディーと使徒たち』より)

 この残虐行為はさすがに悪評を呼んだ。しかし、今回は英国の国際的な評価が問題になるような事態にはならなかった。相手は黒人なのだもの。

 ともかく、1902年のドイルは「南アフリカ大虐殺」の冤罪を独力で晴らしたのである。ナイトの位はこの功績に対して与えられた。
 しかし、まだ本題に入っていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 1日 (火)

非暴力直接行動(8)

 第二次大戦後の植民地の独立はどのようにもたらされたか?
 ベトナム。フランスとしては、戦後にベトナムを独立させるつもりは毛頭なかった。1945年9月、ホー・チ・ミンたちはハノイでベトナム民主共和国の成立を宣言したが、フランスは軍隊を送った。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍がベトミン軍に降伏しジュネーブ協定によって撤退するまで第一次インドシナ戦争が続いた。
 インドネシア。日本の敗戦後、オランダは独立を認めず軍隊を送った。1949年まで続いた独立戦争には、残留日本兵2000名も参加した。
 マレーシアとシンガポール。マレー半島は戦略的に重要な領土なので英国は簡単に手放そうとはしなかった。マレー系と中国系の対立もあり、マラヤ連邦として完全に独立したのは1957年である。(シンガポールは1965年に分離独立)
 ビルマ。1942年、アウンサン(アウンサンスーチー女史の父親)らが日本軍の後押しで英軍を駆逐、翌年ビルマ国建国。1945年3月、アウンサンは英国側に寝返ったが、戦後英国は独立を許さず、再び英領となった。1948年、ビルマ連邦として独立。
 住民が非暴力の抵抗運動を行い、支配者が植民地主義の悪を反省して立ち去る――というシナリオが実現していたらどんなに素晴らしいことか。しかし…

 アジア諸国の独立については
・インドとパキスタンを除き、日本軍が支配者を駆逐した。
・日本の敗戦後、現地人が独立戦争を戦った。
・フランスやオランダは負けて追い出された。イギリスは必ずしもそうではない。植民地保有のコストが割に合わなくなってきたのだろう。「インドはもう十分元を取ったし、ビルマのようなつまらない所を持ち続けても。しかし、マレー半島はまだ手放せないぞ」
・インドでガンジーの非暴力主義が独立を「四半世紀以上遅らせた」かどうか。しかし仮にガンジーの指導が貫徹していたらどうか。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)の路線がなかったとしたらどうか?

Greater_east_asia_conference
 1943年11月の大東亜会議出席者。左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、王兆銘(中国)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)。

Daitouakyoueiken

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月30日 (月)

非暴力直接行動(7)

 ガンジーは1948年1月30日に暗殺された。
 インドが独立したのは前年の1947年8月15日であった。パキスタンとの分離独立であったため、ガンジーは独立式典にも参加しなかった。初代首相は国民会議派におけるガンジーの盟友ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)であった。

Nehru_gandhi_1942

 インドが独立を勝ち取ることができたのは、ガンジーの非暴力直接行動が功を奏したからだろうか?
 英国の政治学者バーナード・グリッグは、「ガンジーの非暴力主義がインドの政治的解放を四半世紀以上遅らせたことはほとんど確実であろう」という。(ガンディーと使徒たちの書評
 別宮暖朗氏の『軍事学入門』

 日本の敗戦から2年後、イギリスはインドの独立を承認しました。この独立も、イギリスが財政上つりあわないと判断したことが大きかったと思われます。イギリスは1931年に成立した労働党のマクドナルド挙国一致内閣のころから、インドをカナダ、アイルランド、オーストラリアなどと同様の地位の自治領として独立させることを考えていました。
 その理由は、1919年に起きたアムリツァールの暴動などにより治安維持コストが予測不可能になったことだと思われます。……
 ……植民地の独立とは……恒常的ハラスメント(宗主国から派遣された官民に脅威を与えること)により、駐留経費が割に合わなくなり、宗主国が独立を許さざるを得なくなったものが大半です。ハラスメントとは言論やオープンな武力行使ではなく、「テロ」の形をとることが多いものです。

 ガンジーの非暴力運動がイギリスに対して「道徳的衝撃」を与えたことは確かである。しかし、これは相手がイギリスだったからで、ナチス・ドイツやスターリンのソ連ならば、ガンジーは問答無用で殺されていただろう。
 インドの独立をもたらしたものは、「非暴力」ではない。端的に言えば「テロ」であった――というのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月27日 (金)

非暴力直接行動(6)

Salt_march

 1930年3月12日、ガンジーは「塩専売法」を標的とした非暴力直接行動を開始した。彼はグジャラート州アーメダーバードの近くのサーバルマーティ・アーシュラムから200マイル南のダンディーの海岸まで、数十人の弟子と新聞記者を引き連れて「塩の行進」を開始した。海岸に着くと鍋を持って海に入り、天日で少量の塩を作って法を犯し逮捕を待った。こうして違法な塩を作る運動はインド全土に広がった。ガンジーが率いた最大の抵抗運動であった。数十万人が入獄した。
 UPI通信のアメリカ人記者ウェブ・ミラーは、5月21日、ボンベイの150マイル北にあるダラサナ製塩所へのデモ行進で起きた事件を次のように描写している。

 命令が発せられると、数十人の現地人警官が前進してくるデモ隊に襲いかかり、彼らの頭上に鉄を巻いたラーティーの雨を降らせた。誰一人、殴打を避けようと手を挙げる者はなかった。彼らはボーリングのピンのように倒れていった。私の立っているところからも、無防備の頭蓋骨を警棒が叩く怖しい音が聞こえた。後列の者は、警棒が振り下ろされるたびに自分が殴られたかのようにうめいて息を吸い込んだ。……彼らはひるまず、顔を上げ、音楽にも声援にも励まされず、重傷や死を避ける見込みもなく、ひたすら前進して行った。警官隊が襲いかかり、組織的機械的に第二列を打ち倒した。格闘はなかった。デモ隊は静かに前進して打ち倒された。

 藤井日達師はガンジーに南無妙法蓮華経を教えたのであるが、非暴力直接行動の方法はガンジーから学んだ。1956年の砂川と1930年のインドでは同じことが起きていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木)

非暴力直接行動(5)

 ベ平連の事務局長であった吉川勇一氏の「非暴力と非合法」(1998年8月1日)から引用する。全文はhttp://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N49/N49-11.html

一九五六年の砂川闘争
 いちばん有名なのは、一九五六年秋、東京都・砂川基地拡張阻止の運動の際、日本山妙法寺の僧侶たちがとった行動だろう。
 基地拡張のための強制測量を阻止しようとして、東京地区労の労働組合、全学連、平和団体などがスクラムを組む前で、黄色い衣を着け、団扇太鼓をたたく僧侶や信者たちが座り込んで読経を続けていた。退去を要求する何度かの警告の後、警察機動隊が排除にかかり、座り込む僧侶たちの頭の上に容赦なく棍棒を振り下ろした。この事件は当時、平和委員会のデモに加わってスクラムを組んでいた私の目の前で起こった。
 棍棒で頭を割られ、血が噴出し、倒れるものが次々と出ても、僧侶たちは動ぜず、ひたすら読経を続けた。機動隊の暴行によるその場面は、まさに凄惨と言うにふさわしいものだったが、私は、読経を止めぬ妙法寺の僧侶たちの行動に激しく心を打たれた。そのうち、警官のほうもそれ以上の殴打を止め、一人ずつ、引き抜いて連行してゆく方針に変えた。ついで、私たちのデモも引き抜かれ、二列に並んだ警官の列の間を一人一人、突き飛ばされ、殴られながら、離れた場所へつれて行かれた。だが、多くの参加者は、そこからまた遠回りの道を戻って再びピケット・ラインの後部についたのだった。

Nittatus

 日本山妙法寺は、藤井日達(1885-1985)が創立した日蓮宗の新宗教団体である。
 現在も世界各地で団扇太鼓をたたいて積極的な平和運動を展開している。成田空港(1978年開港)の建設反対運動にも関わり、4000メートル滑走路予定地に平和塔を建設した。この平和塔の移転に際しては、日本山妙法寺と運輸大臣等の間に「空港の軍事利用を行わない」という取極書がかわされた。

Kyuheiwatou

 日蓮宗系の別の団体が「ガンジー、キング、イケダ」などととなえているが、あれは冗談である。本気にしてはいけません。
 ガンジーと関わりがあったのは藤井日達師である。日達師は1933年にインドでガンジーに会っている。当時63歳のガンジーと48歳の藤井日達師は意気投合したらしく、日達師はガンジーのアーシュラム(修業所)に滞在した。日達師はガンジーたちに「南無妙法蓮華経」を教えた。
 ガンジーとその晩年をともにした弟子によると、1930年代半ばから40年代半ばまで、アーシュラムでは毎朝4時20分に祈りの集会が始まった。まず、ひとりが小さな(団扇)太鼓をたたいて、日本語で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」ととなえるのだった。その後で2分間瞑想してから、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教などの祈りをとなえ聖歌をうたった。
「南無妙法蓮華経」がお題目であることはインド人には分からなかったと見えて、この弟子は「日本の僧侶が教えてくれた仏教のお経」と書いている。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月25日 (水)

非暴力直接行動(4)

 非暴力直接行動について。
 しかし、議論なんてアホらしくなってきました。
 運送会社の倉庫に忍び込んで盗み出した鯨肉を堂々と見せびらかして、「横領を告発する」だって。

7cae592c

 盗人猛々しい。三分の理もない。
 そんなことが日本で通用すると思っているのか? どこの国でだって通用しないよ。
 自分たちをマハトマ・ガンジーになぞらえるとは図々しい奴等だ。
 もちろん月とスッポンなので、まともに真面目に相手にしてはいけません。

 しかし、せっかくガンジーとの比較をやりかけたのだから、ちょっと極端な場合を考えてみよう。
 ガンジーはヒンドゥー教徒として「牛は神聖だ」と信じていた。もちろん牛肉は食べなかった。

250pxcowha

 南アフリカの支配者の白人はキリスト教徒だから、かわいそうにも牛の神聖性を知らない。ビフテキなんかを食べて罪を犯している。彼らを助けてあげなければならない。ガンジーは牧場、精肉所、レストランなどに対して非暴力直接行動を起こした――としたら、どうなっただろうか? 答えは明らかでしょう。

 ガンジーは1896年に殺されかけている。27歳のときだった。南アフリカに来て3年で、まだ非暴力直接行動は始めていない。在留インド人の人間としての尊厳を守るための言論活動をしていただけだ。
 一時帰国していたインドから戻ってダーバンの港に上陸したガンジーを白人の若者たちが見つけた。
「お前は新聞に載っていた男だな」と誰かが叫んでガンジーを後ろから蹴った。男たちは石や煉瓦のかけらをぶつけ、ガンジーのターバンを引きむしってパンチを浴びせはじめた。幸いにもダーバンの警察署長夫人が通りかかり、ガンジーを助けに駆け寄った。彼女はガンジーのそばに立って、パラソルをひろげて彼のむき出しの頭を守った。暴徒もさすがに警察署長夫人には手を出しかねてたじろいでいるうちに、警官隊が駆けつけ、ガンジーを知人の家に連れて行った。
 しかし暴徒は後をつけてきて家を取り囲み、焼き討ちにしてやると脅かした。警察署長が駆けつけて戸口に立った。彼は暴徒をなだめようと、「リンチにかけろ」という歌を一緒になって歌った。

  リンチにかけろ、ガンジーを
  酸っぱいリンゴの木に吊せ

 その間にガンジーの傷に手早く包帯が巻かれ、巡査たちが裏口から連れ出した。彼らは塀を乗り越え柵の間をすり抜け狭い裏道を通って、ようやく警察署に辿り着いた。署長がガンジーは逃げてしまったと告げ、群衆は解散した。

 危ないところだったのだ。この警察署長夫人のような人が出てくるのが英国文明の偉いところなのだが、それはガンジーのメッセージが届いていたからだ。「聖牛を守れ!」では駄目です。
 現代でも同じだ。アメリカやイギリスのマクドナルドの前でインド人が

  The cow is sacred. Beef-eating is a deadly sin.

というプラカードを掲げて立ったとしたらどうか。すぐにぶち殺されます。
 グリーンピース・ジャパンの諸君、日本人がおとなしいことに感謝したまえ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年6月24日 (火)

非暴力直接行動(3)

Gandhimahatmagandhiposters

 グリーンピース・ジャパンの諸君はマハトマ・ガンジーを引き合いに出すのだが?

 グリーンピースのやっていることは「非暴力直接行動」であるか?
 要件はまず
(1) 暴力を振るわない。
(2) 直接行動を行う。
 の2点だろう。当たり前だ。
 では「直接行動」とは何か? ガンジーのケースを例に考えてみよう。
 直接行動は
① 違法な行動である。ガンジーの場合は、移民制限法をはじめとする法律に違反することは明らかであった。
② したがって、刑罰を受けるのは当然である。
③ 違法であってもよいが、不道徳な行動であってはならない。

 ③を忘れてはならない。殺人や傷害は暴力である。盗みは「非暴力」ではあるが、不道徳な行動である。
 グリーンピース・ジャパンの諸君が西濃運輸の倉庫から鯨肉を盗み出したのは違法かつ不道徳な行動であった。「違法性が阻却される」というような理屈を述べている人がいるようだが、その前に「不道徳かどうか」を考えて欲しい。

 ①の違法性について。直接行動は大部分の場合に違法であり、例外的に「違法性が阻却される」ことがあるだけだ。
 たとえば、営業中の店の前に集団で立ちはだかって客が入るのを邪魔すれば、威力業務妨害で逮捕される。
 ところが、ストライキ中の組合員がピケを張るはどうだろう。これは正当な争議行為として認められるはずだ。この場合に威力業務妨害の違法性が阻却されるのは、法が労働運動に公益性を認めているからだろう。
 違法な(しかし不道徳ではない)直接行動に訴える者は、刑罰を受けることを覚悟するのである。
 グリーンピースが操業中の捕鯨船を妨害する行為はどうか? 南極海まで警察が逮捕に出向くわけには行かないだけだ。

080414bougai1

 写真はタンカーと母船の間に入り込んだグリーンピースの高速ゴムボート。詳しくはhttp://www.icrwhale.org/080414ReleasebougaiJp.htm

 直接行動については、さらに考えるべきことがある。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2008年6月23日 (月)

非暴力直接行動(2)

Gandhi_southafrica

 1913年3月、キリスト教の儀式によらぬ結婚は無効だという理由でインド人労働者の妻の南アフリカ入国を認めないとする判決が下された。同時に「連邦移民制限法」が制定され、インド人の南アフリカ移住は実質的に禁止されることになった。
 同年9月、ガンジーは非暴力直接行動を開始した。彼は
「南アフリカ連邦中の監獄にできるだけ多くのインド人を送り込もうと決心した。これによって一連の反インド人法の非道徳性を浮き彫りにし、南アフリカの社会に道徳的変化をもたらすことができるかも知れない。」

 ガンジーの妻を含む同志16人が移住許可証なしでナタールからトランスヴァールへ州境を越え、逮捕を誘った。政府は挑発に乗って全員を逮捕し投獄した。
 数日後さらに11人が同じように逮捕されるべく、今度はトランスヴァールからナタールへ許可証を持たずに州境を越えた。しかし政府は今度は逮捕を控えたので、ガンジーの計画通り、11人はニューキャッスルまで36マイルを行進した。ここでは5000人のインド人年季労働者がヨーロッパ人所有の炭坑で働いていた。11人は炭坑夫を説得して、人頭税とサール判決に抗議するストライキに入らせた。……
 ガンジーは11月まで数千人のインド人を率いて抗議行動を続けた。
 ガンジーと同志たちは政府に対して
「我々はこれから移民制限法に違反する行為を行うから逮捕していただきたい」と通告した。しかし、政府は挑発に乗らず、ガンジーと同志たち全員が「国法陛下のホテルの客」となることはできなかった。
 ガンジーはこの間に三度逮捕された。彼は懲役6ヶ月または罰金60ポンドを宣告され、懲役を選んだ。
 ガンジーたちの運動は英国とインドの新聞に大きく報じられた。
 1914年1月、ヨーロッパ人の鉄道労働者が南アフリカ全土でストライキに入り、ボータ政権は存亡の危機に立たされた。ガンジーはただちに抗議行動を取りやめた。
「我々は敵の弱みにはつけ込まない」という理由だった。ガンジーの自伝によれば

 スマッツ将軍の秘書官の一人が苦笑して言った。「私は諸君を好まないし、助けてやりたいとも思わない。しかしどうすればよいのか。どうして諸君に手を挙げられるだろうか。諸君が英国人のストライキのように暴力を振るえば、こちらにもやりようがある。すぐに始末をつけてやる。ところが諸君は敵を傷つけようとしない。もっぱら我が身に苦痛を引き受けることで勝利を求めて、自ら課した礼儀と騎士道の限界を踏み越えない。こちらは手の出しようがなくて困ってしまうのだ」

 一九一四年六月、政府の代表でもなく官職もないガンジーは、スマッツ将軍と手紙をやりとりし会談を重ねて、あたかも対等の立場であるかのように交渉し協定を結んだ。ヒンドゥー教、イスラム教、パールシー教の伝統儀式による結婚はすべて有効と認められ、人頭税は廃止され、未納分の徴収は中止された。しかし連邦移住制限法は、政府側の形式的な譲歩として毎年六名の教育あるインド人の入国が認められたほかは、依然有効とされた。協定は妥協の産物だったが、ガンジーはこれを運動の勝利と考えた。
 この年、ガンジーは21年間を過ごした南アフリカを去った。以後はインドで非暴力直接行動を続けることになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)